かなしいことだけ集めたい

鹿児島帝国で生存中

楽しい歯磨き

昨日はごはんを食べたらすぐに眠ってしまい、午前2時にまた目が覚めました。

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高画質の歯磨き粉

 

それで今までずっと起きていたのだけれど、そのあいだに3回も歯を磨いてしまった。ノンアルコールビールを飲んではひと磨き、こぶ茶を飲んではふた磨き、コーヒーを飲んではさん磨き、といった感じ。

要するにこれは逃避というやつで、本当はやらなくてはならないことがたくさんあるのだ。

 

だけれどなんにもしたくはない。やるべきことをやる、どころか漫画を読んだり音楽を聴いたりすることすら億劫なのだ。眠ってしまったらまた遅刻するし(すでに今月2回遅刻しています)。

 

逃避なので歯磨きが好きかと言われるとまったくそんなことはなく、歯磨きを忘れて寝ちゃうことも結構あり、おかけで現在深刻な虫歯に悩まされております。ベロで歯をなぞっていくと、犬歯のふたつくらい奥の歯に、ぽっかりと大きな穴が空いていて、そこがすこぶる痛い。ケンタッキーを骨ごと食べていたら欠けてしまい、そこに虫歯が巣食っているのだ。まあそのうち歯医者に行きましょう。歯医者は逃げない。あ、あと保険の切り替えもしなきゃあ。うわー、めんどくさい。

 

それはそうと、歯って起伏に富んだ形をしていますよね。『孤高の人』だったかな、クライマーはパン屑でもなんでも山に見立てて登山ルートを妄想できるってやつ。あれ、自分の歯でやれたら最高の暇つぶしになりますよ。やっぱり犬歯がもっとも危険なんだろうな。おれの犬歯で遭難者が続出するのか、ざまあみろ。

 

さて8時ですし、ひとまず火曜日まで働いてまいります。

鴨のTシャツ

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捨ててしまったTシャツを思い出す。

 

大きな鴨が描いてあった。後ろには鴨のお尻が描かれていた。かわいいTシャツだった。だけれど捨てた。多分、2度目の引越しで捨てた。

 

穴も開いていなかったのに捨てられてしまったあのTシャツには、もっと別のあり方があったのかもしれない。

 

もしかしたらあのTシャツは、女の子が着ても可愛かったかもしれない。おっぱいの大きな女の子が着たら特に。中央線に住んでいそうな女の子で、渡辺ペコが好きなのだ。そしたら「その鴨かわいいね」とか言いながら胸をずっと見ている男が現れただろう。そういったことに彼女はうんざりしているかというとそうでもなく、彼女は鴨に向けられた視線を、自分に向けられた視線へと変換できるだけの度量をもっている。そういう人間に着られれば、鴨は満足しただろうか?

 

しかし、それは間違いだ。その鴨は大きくゆがんでいる。本当は、胸の平らな女の子に鴨は着られるべきだった。かもしれないではなく、そうあるべきだった。まあでもその女の子は顔がかわいいから、だれも鴨のことなんか気にしない。鴨は確かにそこにいるべきだったけれど、それはとってとてつもなく退屈なことだった。胸の小さな女の子にしたって、だれも見てくれないTシャツを着ていたってしょうがないと思うだろう。そして多くの美男美女がそうするように、彼女は無地のTシャツを着るようになる。鴨はどこに行く?

 

鴨だけに限った話ではない。おれは動物の描いてあるTシャツが好きだった。虎、仔犬、熊、鰐、水牛、白熊、革命家、馬、フラミンゴ、カエル。

まあそれもみんな何処かに行ってしまった。おれは美男美女ではないのだが。それでも動物はどこかに行ってしまった。

 

そいつらは外濠に逃げ込み、緑色の水のなかで遊びまわっている。

虎は革命家を齧り、熊と鰐と水牛が3Pをしている。

白熊は炎上し、馬はカエルを乗せて自撮りしている。

おっぱいの大きな女の子も中央線からやってきて、フラミンゴを値踏みしている。

仔犬はいつもひとりぼっちだ。

 

おれは胸の平らな女の子とそれを眺めていたが、雨が降ってきたのでそろそろ帰ろうと思う。しかし鴨はどこに行った?

 

ワンダーフォーゲルを聴き直したりしている。あと、俳句。

最近なんとなく俳句が好きです。ツイッターの俳句botをよく見るとか、まあそのくらいなんとなくなんですが。

 

 

「足る」という言葉が恐らく「垂る」を連想させ、あるいは「満足」という意味を呼び寄せ、そこで隣りあった「満ちる」という語のせいか、なにかしら液状のイメージが浮上する。「一日」と書かれた容器に、どぷどぷと液体が注がれていく。それはゆるい粘性をもった液体だ。液体は容器のなかで凝固し、ゼラチン質の塊りとなる。そのなかには、黐の花も一緒にとじ込められているだろう。それを内側から、低音が揺らす。表面は波打ち、黐の花が震える。そんな様子を眺めているだけで、一日が終わりになればいい。

 

さて、この句に惹かれたのは、やはり「低音」という語句が目に付いたからで、それはここ数ヶ月、他人と音楽の話をする機会が、普段より少し多かったからです。8ビートと16ビートの違いなんかも説明してもらって、なんとなく理解できた気がしたので、この曲はどっちかなー、と思いつつ聴いてみるのが楽しかったりします。まあ全然わかんないんだけど。とりあえず、ハイハットとかが分かりやすそうなのでそれっぽい音を追いかけてみると、これまでとは違った聴こえ方がするので不思議です。

 

例えばくるりの「ワンダーフォーゲル」。

 

www.youtube.comクリストファーはいつだって16ビートだ!たぶん。

 

基本的には四つ打ちの8ビート。一歩一歩、それこそ「何千マイルも歩い」ていけそうな着実なリズム。ところが「いまなんで曖昧な返事を返したの」から、ここに16ビートの打ち込み音(?)が加わる。これが曲全体をスッと軽くする。そうか「翼が生えた」っていうのはこのことなんだと気付かされる。

となると、2番でもきっと同じ展開があるのだろうと期待が高まる。「矢のように月日は過ぎて」でまた16ビートを使ってくるんだろう。歌詞からしても間違いない。ところがそうはいかないのだ。あの16ビートが入ってこない。まだか、まだかと思いながら歌詞を追いかけていると、その罠に気付く。そう、「ぼく」はいつのまにか「息絶え」ているのだ。ちくしょう、やられた!そして「なに食わぬ顔で」また例の16ビートがはじまる。

 

やられた!岸田にやられた!ちくしょう、岸田め!一生ついていくぜ!

 

そんな感じ。

グリンピースに恨みはないが

グリンピースに恨みない。まったくない。

緑色で、小さくて、丸くて、結構いいじゃんと思う。緑色の平和。

にも関わらずこれから、グリンピースへの不満を書き連ねようと思う。そこには、書くべき文章がうまく書けず、かといって机の前を離れるともう再びPCに向かう気力がなくなりそうなので、とりあえずなんでもいいから適当に文章でも書いてればいいやという、書き手の都合がある。

 

この豆にはじめて出くわしたのはいつか。ちょっと記憶が定かではないが、ミックスベジタブルの線はかなり薄いと思われる。俺の母親は農家の出のため、その手の非自然的野菜食品は嫌いなのだ。野菜は、群馬県は赤堀村の畑でとれたものが一番だと思っている女だ。だからミックスベジタブルなんて息子には食わせなかったはずだ、多分。気づかないで食っていた可能性はある。しかし息子としては母の農家の娘としての矜持を信じたいと思う。となると怪しいのがシュウマイである。

 

とりあえずシューマイで行こう。これは仮定の話だ。

生まれてはじめて見るシューマイ。なんだこれは。白い。小さい。丸い。この匂いは甘くはないな。しかしこれはギョーザってやつとは違うのか?似てるよな。でも違う。ギョーザにはこんな緑のやつは載っていなかっただろう。となるとこいつが、シューマイをシューマイたらしめているのか。にも関わらずところどころ落っこちているのはどういうことだ。けしからん崎陽軒。と思っただろう。なので俺はシューマイをシューマイたらしめているこの緑の小さな徴を、律儀に、丁寧に、きちんと真ん中にのせ直してから食べる。ははん、これはおおむねギョーザだな。むしろ大した香りもしないからには、ギョーザの格落ちだなと即座に侮る。俺が俺の意思でシューマイを注文することは金輪際ないだろうと即断する。シューマイに完全に興味を失った俺は、ではシューマイをシューマイたらしめていた緑の球体を、これだけで喰ってやろうかと思う。そうすることでシューマイのシューマイ性を奪ってやろうという冒涜的な気持ちが湧き上がる。幼いながら器用に箸を使い、おもむろに口に含む。舌の先で転がす。ふむ、悪くねえ。で、ぷちりと噛み潰す。そこであの青臭さが口いっぱいに広がる。

 

うへえ、これは、ひでえや。

 

 

そんな不幸な出会いがあったかもしれない。まあ恐らくなかっただろう。

その後、グリンピースとの付き合いは主に給食を通してのものだったように思う。

教室という名の閉鎖空間。教師とかいう変人ども。変なトレーナーを着た俺。農家の娘である母。そして端的にクソ以下の同級生たち。こんな環境で食う飯がうまいか?いや、麻婆豆腐は文句なしにうまかった。あの異常なオレンジ色の麻婆はなんだ?どこの中華屋で食えるんだ?日々のおかずとトレードで異常な量のスイカを食ったこともあったね。あとはサバ味噌と牛乳が合わなすぎて吐いたりもした。

で、肝心のグリンピースもちょいちょい顔出してたよ、ピラフとかさ。シューマイの時よりひどい味だったなあれは。なんていうか、底知れぬ悪意を感じたよ。小学校ってそんな場所だったからね。

 

それ以降、グリンピースとの関わりで、とくに語るべきものはないように思える。

食べてないって訳でもないんだけど、グリンピースを食べたかどうなかんて覚えてる暇がなかったから。もっと覚えることはたくさんあったんで。友達に彼女が出来たときになんて言ったらいいかとかね。それでさっきようやく、ほんとに久しぶりにグリンピースについて考えてみたら、こんな文章が吐き出されたという次第。

まあ俺の怨嗟なんてこんな1500文字くらいのもんだよ。大したことないだろう。だからグリンピースは安心してくれていいよ。堂々とやってくれ。小さき豆よ、たぶん世界はきみを愛しているから。

『食文化ノート―パリ・博多の台所から』

ひとによるかもしれないけれど、料理に関する本というのは基本的に心地よい。食べたことのない料理の味や色、香りを想像する。「そうだよ、これこれ」といような定番料理が出てくればその味を思い出す。自分にも使えそうなちょっとした「ワザ」をメモし、ちょっと面倒くさそうだけどそそられるレシピは「いつか自分も」と密かに思う(たいていやらない)。

『食文化ノート−パリ・博多の台所から』も、まずはそんな心地の良さを味わうことができる。(「ジャガイモとポワローのスープ」「タケノコとフキにアナゴをそえたおすし」「ゴマドーフ」「ガメ煮」……。)

 

 

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(表紙の魚がかわいい。鰯かな?)

 



著者の柴田せい(女偏に青)子さんは1949年生まれ。福岡で育ち料理をまなび、25歳のときに渡仏。一年間ヴェレイル家という一般家庭で暮らしながら、その家のマダムからフランス家庭料理の教えを受けたという。本書はそのときの体験をもとにした「パリの台所」と、郷土・博多の台所文化を歳時記風に綴った「博多の台所ー歳時記ー」からなる2部構成だ。

さて、「食文化ノート」という題名が示す通り、本書はレシピ本でななく、どちらかというと、比較文化論のようなノリで書かれている。

たとえば「まな板」について。

柴田さんはフランスに行く以前に、「西洋人は不器用だから、日本人のように食材を細やかに切ることができない」というように聞かされていたという。いまでもこんなことをいう人はいそうだ(ニッポンスゴイ)。
さて、フランスに行ってみるとどうだろう。まずそもそも、まな板を使わない。簡単な輪切りから始まりタマネギのミジン切りまで、こともなげに空中でスパスパと切ってしまう。そこで彼女の興味は「日本人と西洋人、どちらが器用か?」という不毛な論点を飛び越えて、「まな板」という道具そのものへ向かっていく。まな板を意味するフラン語”トランショワール”が元々は「かたいパン」を意味すること、「まな板」は漢字で「真魚板」と書くことを手掛かりに、「まな板」をめぐる文化背景を考察していく。

で、本書の一番の小気味良さは、柴田さんの考察が割と日本の食文化にキビシめであるところにあると思う。
とくに後半の「博多の台所ー歳時記ー」は、「歳時記」という形式からして日本料理を過度に寿ぐ展開を予想していたけれど、そんなことはなく、日本の食文化における「うま味至上主義」「香辛料の軽視」を繰り返し指摘する。

そもそも柴田さんがフランスの家庭料理を学んだ理由というのが
「フランスや中国では、自国のもの以外の料理をつくることがあまりないと言われる。日本の家庭料理を凌駕してしまった、高度に完成された家庭料理とは、どんなものだろう」
という好奇心からはじまったそうなので、日本の食文化にキビシめなのは当然かもしれない。このあたりの劣等感?は1974年という時代性を感じる。

とはいえ決して西欧コンプレックスで日本の食文化を否定するわけではなく「日本食、だいたい好きだしもう身に染み付いちゃってるけど、ここがちょっとイケてないよね」というくらいのスタンスで、そのバランス感覚が私にはちょうど良かった。

ちなみに私は完全に「うま味至上主義」なのであらゆる料理には死ぬほど味の素をかけます。昨日は茄子の肉味噌炒めと、ニラ玉を作りました。今日はなにを作りましょうか。

昼休み日記

今朝はフリースを羽織って家を出た。

昨日までは皮のコートを毎日着ていた。

今日が特にあたたかい日になりそうというわけではなかったけれど、とにかくコートはもう重くてうんざりだったので。

 

1月から生まれて初めて会社員というものになった。形から入ろうと思ったけれど、スーツは着ない類の会社なので、せめてと言うことでシャツばかり着ていた。でもそれももういいやと思ってフリースの下にはトレーナーを着ていた。まあ要するにそのくらいには慣れたってことだろう。

 

コートを着ないと身体が軽い。シャツを着ないと呼吸が楽だ。だから自分では随分スタスタ歩いているつもりだったけれど、外堀通りでいつも追い抜かれる長髪のおじさんにやっぱり今日も追い抜かれた。外堀にはアヒルが意味なさげに浮かんでいる。桜はまだ全然咲きそうにない。3月はやっぱり冬だよね。

 

歩きながら寄せ書きに何を書こうかと考えた。鹿児島にいたころの知人たちが、鹿児島から去る女性の送別会をやるということで、一言メッセージを求められたから。だから厳密には寄せ書きではないけど、気持ちの上ではそんな感じだろうと思った。そういう季節だしさ。

 

すでにそこを去った人間がこれからそこを去る人間に寄せ書きするなんてなんか変だけれど、まあいいでしょう。ぼくはその人のことが自然に好きだったので。けっこう踏み込んだ話もしたことがある。だから寄せ書きに参加すること自体は、うれしい。

 

でもやっぱり、寄せ書きってのはだめだ。書くのも書かれるのもあんまり得意じゃない。自分に充てられた寄せ書きは言いたいことを全然言ってくれてないといつも不満だったし、誰かに向けた寄せ書きには言いたいことなんてひとつもかけた覚えがない。

 

結局会社に着くまでなんにも思いつかなかった。今日の昼までに送ってくれということだったから、昼休みにでも書けばいいやと思った。

 

月曜日の午前中はあっちからきたFAXをこっちにFAXするみたいな、生産性のない感じで過ごした。生産性がない感じでも給料がもらえるのが会社員の醍醐味だろう。

 

それで昼休み。やっぱり何も思いつかない。せめて手を動かそうと思って、持ち歩いているノートパソコンのメモ帳にダラダラ文章を書きはじめていまになる。言いたいことはいつも言えないなあ。おそらく今回も。そういえばスネオヘアーにそんな曲があったねえ。『言いたいことはいつも』、ってそのまんまじゃん。

 

 

言いたいことはいつも

言いたいことはいつも

 

 

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というのが大体一週間前のこと。生産性のない割にはなんとなくバタバタしていて、久しぶりにこのパソコンを起動させたら。書きかけの文章が残っていて、現在。寄せ書きは送った、とりあえず。言いたいことは言えていない。今日もフリースとトレーナーを着ている。たぶん、明日も。彼岸過ぎまでは冬だと思う。

レジと特攻

春ですね。いやもう下手したら夏っぽくない。そんなのってあんまりだよ、まだ4月だよ……。 そんな時は、カタコトの「夏じゃない(チルドルームサマー)」を聴きましょう。

夏じゃない(チルドルームサマー)

夏じゃない(チルドルームサマー)

 

サマージャム95’はまだiTunesの奥に閉まっておこうか。くるりの春風でも聴きながらあいつがくるのを気長に待つ。

うむ、夏じゃない、夏じゃない。

 

で、この春はものすごく無為に過ごしていて、とはいえこんな春は人生初めてだというわけではなく、5年前にもこんな春がありました。そういえば計画停電とかしてましたね、5年前。当時山梨にいて、そのときは夏っぽくないというか冬でしょこれって感じで、コタツも使えず毛布にくるまって過ごしてました、確か。で今度は電力自由化ですか。ふーむ、まあそういうの全然関係ない話なんですが。

 

思いがけず大学5年生になってしまい、仕送りがストップされていたので、ぼくはレンタルビデオ屋でアルバイトをはじめました。ぼくと一緒に採用されたのは高校を卒業したばかりのフリーターの女の子で、彼女とは休憩時間が重なることが多かったのですが、ある日ふたりでロッカールームで休憩していると、心理テスト出していいですかと言われ、いやそういうの信じてないからとかなんとか曖昧な返事をしているうちに心理テストは始まりました。誰もいない道に財布が落ちています拾いますか拾いませんか、というようなもので、拾う→ズルい、拾わない→真面目という、それは心理でもテストでもなくないか???という衝撃の内容でしたが、わたし拾わないから真面目なんですよー、とニコニコしている彼女の様子に、なぜか少しビビってしまいました。でもその子はぼくより随分仕事ができて、クーポンやなんかのちょっとめんどくさいレジの処理もぼくよりスッと覚えていて、覚えの悪いぼくはけっこう助けられたりしていましたね。
もう一人よくシフトが重なったのが、ぼくと同じ大学の出身でフリーターをしている一つ上の女のひとで、このひとの彼氏とは顔見知りだったこともあって、帰りの電車なんかでちょこちょこ話すようになりました。わりと趣味もあって会話するのは楽しかったのですが、後日ぼくが発したイタい発言(歌詞の入っている音楽を聴くのが疲れてきた、というような、たしかにイタい発言。他にも多数。全体的に発する言葉全てがイタかった。)を抽出しtwitter上であげつらっていることを知ってしまい、けっこう死にたくなりました。
バイトリーダーっぽい30くらいの女性はなぜかいつもランチパックのハム&マヨネーズみたいな匂いを発していたのが謎で、たまに駅まで車で乗せてくれた店長はマニュアル車に乗っていて、これみよがしにシフトチェンジを繰り返していました。こんな感じで、ぼくはこのバイトがあんまり好きじゃありませんでした。

さて話は変わって先日、ゲストハウスで知り合ったドイツ人と一緒に知覧にある特攻平和会館に行ってきました。

www.chiran-tokkou.jp

 

ドイツから東京の大学に留学していて春休みを利用して鹿児島に旅行してきたという彼女に、どうしてまた特攻なの?と聞くと、感動したいから、とのことでした。あるねー、そういう気分。一緒に行くかと誘ってくれたので、特攻とか興味ないなーと思いつつも、ドイツ人と行くのはなんか面白そうだったので行ってきました。何より暇だしね。

HPの「特攻平和館とは」を開いてみると、「特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであったろうと思います」とあります。同じようなことが会館に入ってすぐのところに書いてあり、そういう風に個人の感情をサクッと都合良く全体化してしまうのはなんにも反省になっていないのでは、といきなり不安になります。メインの展示物である特攻隊員や家族の手紙は胸アツなのですが(とくに特攻隊員の母親が息子にあてた、特攻するその瞬間にナムアミダブツを唱えてくれ、それだけが母の望みだと懇願する手紙には迫るものがありました)、それだけにその「感動」に押し流された展示になってしまっているという印象です。「負の遺産」の展示ってそれでいいのかい??広島の原爆ドームみたいに有無を言わさない圧倒的なエグさを提示するっていうのは、文章がメインの展示では難しいのもわかりますが。でもそれをしないと「これ特攻美化じゃないの?」というツッコミは避けられないし、実際そうなんじゃないと思わせる危うい内容だと思いました。アメリカの艦隊に命中したことを「成功」と表現する展示があったりもするし。美化したい人は勝手にすればいいと思いますし、そもそも一緒にいったドイツ人のように感動したいという需要はあるんだからそれはそれでいいと思いますが、「再び戦闘機に爆弾を装着し敵の戦艦に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対にとってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならない」(同上HP)というならやっぱり、「感動」に流されてるだけじゃダメだろう。具体的な物がないのであれば、「じゃあ誰に特攻の責任があったのか?」というところまで示さないとこの施設的にはダメなんじゃないか?と思ってググっていたらBLOGOSにこんな記事がありました。

blogos.com

記事の中で、戦争責任に触れていないではないか、というドイツ人記者のツッコミにたいして平和会館の参事は、いち地方自治体である南九州市は戦争責任に答える立場にはないと答えているので、責任問題に触れていないのは意図的にそうしているようですね。加えて知覧や特攻について研究しているという静岡大学のシェフタル教授が、もともと追悼施設としてはじまった施設で、60年間の伝統があるから、戦争責任の問題に取り組むにも時間がかかる、個人的にはやるべきだと思うけど、とお茶を濁すような発言をしています。60年間曖昧にしちゃったんだから、急には無理だよね〜、というのは割となめられているような感じですが、この記事の答弁を読んでも実際そうなんだからしょうがないでしょう。戦争責任という紛糾しそうな話題はスルーします!でも世界記憶遺産にはしてね!という決意が感じられる記事になっていますので、お暇な方はご一読を。(にしても世界記憶遺産とかほんとどうでもいいよな)

 

そんな感じでモヤモヤしたし、そもそもあんまり「感動」するのは好きじゃないのでぼくにとってはなかなか疲れる施設でした。なので『永遠の0』とかが好きなひと以外にはとくにオススメはしません。ドイツ人的にはどうだったんだろうと思い感想を聞いてみると、遺書や手紙の英訳が微妙で感情移入できなかったとのことで、そうかドンマイ蕎麦でも食べて帰ろうぜとなったのでした。蕎麦屋さんでは「親子丼」というネーミングセンスが残酷すぎる、「それ行け」の「それ」ってなに?くるりの「東京」はドイツ人からしても泣ける、日本人はなんでみんな星野源好きなの?などの有意義な会話がすべて日本語で行われたのですが(3ヶ国語話せる才媛だった)、そのなかで一番びっくりしたのが、ドイツでは、レジ打ちは座ってやるという話でした。どうも欧州ではそれが一般的で、あちらに旅行に行った日本人が驚くというあるあるネタのようです。
その事実というより、自分の中にはレジ打ち中に座るという発想がまったくなかったことに気づいておどろきました。レジ即直立。レンタルビデオ店でのバイトがすきじゃなかった理由のひとつにレジ打ちがクソ嫌いだったというのがあります。退屈なのはさておき、姿勢が悪いせいか筋肉が足りないせいか、ずっと立っていると足や腰が重だるくなって辛かったです。でもはやく帰りたいとは思っても、座りたいとは、思わなんだなー。

 

立ってると疲れるから座りたい、その当たり前の発想ができてなかったことに、ちょっとゾッとしました。
飛躍が許されるならばですよ、飛行機で突っ込んだ彼らと、レジのなかで立ちっぱなしなぼくたちは、どこか似てやしないか、とか考えてしまいます。立ちっぱなしのぼくたちは過労死する系のぼくたちになりやすことを考えたら、大した飛躍でもないのかもしれないし。そもそもなんで立ってしてるんだろうと考えてみると、客が立っているのに店員座るのは失礼じゃないか的な発想が根本にあるだろうことを考えるとますます飛躍ではない気がしてきます。

この苦痛は受け入れなきゃならない苦痛だとあっさり受け入れてしまう。そんで多分、こういう性質を持っている人間は、他人に苦痛を強要する側にだってなりやすいだろうなと思います。「だってこんなの当たり前のことじゃないか」

苦痛を受けるのも、押し付けるのも、回避したい。

 


それには、もっと解像度をあげよう。苦痛を苦痛として見抜く目を。そしてそこから逃げ出そう、というのは無職がいうとあんまりにも自己弁護のようで、ちょっと引くな。