かなしいことだけ集めたい

鹿児島帝国で生存中

「1st NEO wave」/live review

 

先週の日曜日、『1st NEO wave』なるライブイベントを観に渋谷まで行ってまいりました。ライブ自体が久しぶりで、ちょっとダルいかなぁとも思ったのですが、行って観たら「あぁ〜〜〜〜」となる良いイベントでした。なので忘れないうちに感想を書こう書こうと思っているうちに、週もなかばの水曜深夜。それでも今日書くのが最速だから。いまが人生の最前線だ!

 

Hosovoso

前の日にお風呂はいってなかったので、一応シャワーくらい浴びてかなきゃと思って、そしたらもう靴とか履くのが面倒でサンダルで出かけたんですよ、渋谷まで。そしたらこれが大正解というかめちゃくちゃ気持ちよくて。足の指の一本一本に秋風が沁みるぜ、みたいな。それに日曜日の18時くらいに、予定があるから早足で駅前を通り過ぎるっていう、それだけでなんかいいじゃないですか、もう。

で、開演から10分くらい遅れて入場したら、ちょうどHosovosoさんの一曲目が終わったところでした。

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「あ、なんかこの人モッズコート着てる、暑くないのか」というのが第一印象でしたね。でもさあ、聴いてるとちょうどいいんすわ、これが。なんというかオフビートっていうか、聴いていると体温が気持ちいい下がり方をしていく感じ。存在に初冬感がある。

MCではサラリーマンをしながら音楽活動をしていることにも触れられていて、その流れからの『スーダラ節』カバー。これがめちゃくちゃハマっていて、翌日以降ちょいちょい真似してスーダラ節を口ずさんでいます。

それと、最後に演奏した曲、名前は忘れてしまいましたが、それまでのゆるいノリから一転してのエモーショナルな演奏がとてもカッコよかった。ずっと見ていたいストロークでした。

 

No Buses

で、お次に登場したのがNo Buses。この日観たバンドのなかで一番気に入ってしまったのがこのバンドで、物販でCDも買ってしまった。いや、演奏とか歌とか、技術的なところは多分まだ発展途上って感じなのだろう、まだ若いし。でもそれを補ってあまりある圧倒的な良さ。ガレージロックなんだろうか、ジャンル的には。ちょっとためらいがちなボーカルやドラムのリズム、そしてグッドメロディが、あんまり普段は意識しない脳の一部をグリグリと押してくる。

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こう、はじめて音楽を聴きはじめた思春期の頃に「こういうのがかっこいいんだぜ」って言われて、なんかわかんないけどスゲーみたいに思いながら聴いていたのがこういう音楽だったような気がするし、大学の軽音楽部の、身内以外誰もいない発表会に紛れ込んでしまって居心地の悪い思いをしながらも「悔しいけどこれはかっこいい」みたいな気持ちにさせられたのもこんな音楽だった気がしたのです。

うん、まあそういうセンチメンタルは抜きにしていいバンドだった。シティポップも聞き飽きたし、次はそろそろこういうの行っときますか、的な浅はかな気分は抜きにして、これからも動向を追いかけたいバンドですね。

 

AFRICA

No Busesが思春期だとしたら、AFRICAは男盛りっていうか、下手くそな喩えで申し訳ないんだけど。とにかく完成度が高い。演奏も歌もめちゃくちゃうまい。今風のダンサブルでテクニカルな演奏なんだけど、そこに乗ってくるのが、それこそ劇団四季のライオンキングを連想しちゃうような張りのある美声で、ソングラインもどこか懐かしい。その取り合わせの妙が、とても新鮮。あ、こんな組み合わせもあったんだね、っていう。アボカドと醤油をはじめて一緒に食べた、みたいな気持ちになりましたね。

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あと、この日出てたバンドのなかで唯一日本語歌詞がメインだったところも印象的でした。単語のチョイスがいちいちロマンチックで、そこが声や演奏の男臭さとギャップを生んで、やっぱり取り合わせの妙だなあ、と。AFRICA

、これはひとつの発見だと思いました。

 

in FAM step

イベントのトリを務めたのがin FAM step。まあ、まずちょっと聴いてみてくれよ。

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超いけてるじゃないですか。めっちゃいいじゃないですか。じゃあ彼らはどこのバンドだと思います?わかる?宇都宮なんすよ、これが。まじかよ、どうなってんだ宇都宮っていう。宇都宮CITYどうしちまったんだよ。おれが佐野のアウトレットに行くときにちょっと寄ったあの頃の宇都宮とは全然違うじゃん。。。でも、栃木って足利にもCAR10とかもいるし、インディーズがいまアツくなってるのかもなぁ。元群馬県民なので、がんばろう北関東!的な謎の一体感を感じました。音楽的には、この良さを説明する言葉をおれはほとんど持っていないので、良いとしか言えないっすね。この日は、まだ仕事が残っていたので絶対にビールは1杯までと決めてたんですが、思わずお代わりしてしまうくらいに良かったです。おれの心が弱いわけではなく、in FAM stepが良かった。これは事実です。

 

家を出ろ

全体の感想としては、今回のイベントを企画したotomaisonさんのHPに書いてあるフレーズ「自分の家では体感できない素晴らしい音楽を」。これに尽きるなあ。よし、またライブ行きましょう。

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楽しい歯磨き

昨日はごはんを食べたらすぐに眠ってしまい、午前2時にまた目が覚めました。

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高画質の歯磨き粉

 

それで今までずっと起きていたのだけれど、そのあいだに3回も歯を磨いてしまった。ノンアルコールビールを飲んではひと磨き、こぶ茶を飲んではふた磨き、コーヒーを飲んではさん磨き、といった感じ。

要するにこれは逃避というやつで、本当はやらなくてはならないことがたくさんあるのだ。

 

だけれどなんにもしたくはない。やるべきことをやる、どころか漫画を読んだり音楽を聴いたりすることすら億劫なのだ。眠ってしまったらまた遅刻するし(すでに今月2回遅刻しています)。

 

逃避なので歯磨きが好きかと言われるとまったくそんなことはなく、歯磨きを忘れて寝ちゃうことも結構あり、おかけで現在深刻な虫歯に悩まされております。ベロで歯をなぞっていくと、犬歯のふたつくらい奥の歯に、ぽっかりと大きな穴が空いていて、そこがすこぶる痛い。ケンタッキーを骨ごと食べていたら欠けてしまい、そこに虫歯が巣食っているのだ。まあそのうち歯医者に行きましょう。歯医者は逃げない。あ、あと保険の切り替えもしなきゃあ。うわー、めんどくさい。

 

それはそうと、歯って起伏に富んだ形をしていますよね。『孤高の人』だったかな、クライマーはパン屑でもなんでも山に見立てて登山ルートを妄想できるってやつ。あれ、自分の歯でやれたら最高の暇つぶしになりますよ。やっぱり犬歯がもっとも危険なんだろうな。おれの犬歯で遭難者が続出するのか、ざまあみろ。

 

さて8時ですし、ひとまず火曜日まで働いてまいります。

鴨のTシャツ

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捨ててしまったTシャツを思い出す。

 

大きな鴨が描いてあった。後ろには鴨のお尻が描かれていた。かわいいTシャツだった。だけれど捨てた。多分、2度目の引越しで捨てた。

 

穴も開いていなかったのに捨てられてしまったあのTシャツには、もっと別のあり方があったのかもしれない。

 

もしかしたらあのTシャツは、女の子が着ても可愛かったかもしれない。おっぱいの大きな女の子が着たら特に。中央線に住んでいそうな女の子で、渡辺ペコが好きなのだ。そしたら「その鴨かわいいね」とか言いながら胸をずっと見ている男が現れただろう。そういったことに彼女はうんざりしているかというとそうでもなく、彼女は鴨に向けられた視線を、自分に向けられた視線へと変換できるだけの度量をもっている。そういう人間に着られれば、鴨は満足しただろうか?

 

しかし、それは間違いだ。その鴨は大きくゆがんでいる。本当は、胸の平らな女の子に鴨は着られるべきだった。かもしれないではなく、そうあるべきだった。まあでもその女の子は顔がかわいいから、だれも鴨のことなんか気にしない。鴨は確かにそこにいるべきだったけれど、それはとってとてつもなく退屈なことだった。胸の小さな女の子にしたって、だれも見てくれないTシャツを着ていたってしょうがないと思うだろう。そして多くの美男美女がそうするように、彼女は無地のTシャツを着るようになる。鴨はどこに行く?

 

鴨だけに限った話ではない。おれは動物の描いてあるTシャツが好きだった。虎、仔犬、熊、鰐、水牛、白熊、革命家、馬、フラミンゴ、カエル。

まあそれもみんな何処かに行ってしまった。おれは美男美女ではないのだが。それでも動物はどこかに行ってしまった。

 

そいつらは外濠に逃げ込み、緑色の水のなかで遊びまわっている。

虎は革命家を齧り、熊と鰐と水牛が3Pをしている。

白熊は炎上し、馬はカエルを乗せて自撮りしている。

おっぱいの大きな女の子も中央線からやってきて、フラミンゴを値踏みしている。

仔犬はいつもひとりぼっちだ。

 

おれは胸の平らな女の子とそれを眺めていたが、雨が降ってきたのでそろそろ帰ろうと思う。しかし鴨はどこに行った?

 

ワンダーフォーゲルを聴き直したりしている。あと、俳句。

最近なんとなく俳句が好きです。ツイッターの俳句botをよく見るとか、まあそのくらいなんとなくなんですが。

 

 

「足る」という言葉が恐らく「垂る」を連想させ、あるいは「満足」という意味を呼び寄せ、そこで隣りあった「満ちる」という語のせいか、なにかしら液状のイメージが浮上する。「一日」と書かれた容器に、どぷどぷと液体が注がれていく。それはゆるい粘性をもった液体だ。液体は容器のなかで凝固し、ゼラチン質の塊りとなる。そのなかには、黐の花も一緒にとじ込められているだろう。それを内側から、低音が揺らす。表面は波打ち、黐の花が震える。そんな様子を眺めているだけで、一日が終わりになればいい。

 

さて、この句に惹かれたのは、やはり「低音」という語句が目に付いたからで、それはここ数ヶ月、他人と音楽の話をする機会が、普段より少し多かったからです。8ビートと16ビートの違いなんかも説明してもらって、なんとなく理解できた気がしたので、この曲はどっちかなー、と思いつつ聴いてみるのが楽しかったりします。まあ全然わかんないんだけど。とりあえず、ハイハットとかが分かりやすそうなのでそれっぽい音を追いかけてみると、これまでとは違った聴こえ方がするので不思議です。

 

例えばくるりの「ワンダーフォーゲル」。

 

www.youtube.comクリストファーはいつだって16ビートだ!たぶん。

 

基本的には四つ打ちの8ビート。一歩一歩、それこそ「何千マイルも歩い」ていけそうな着実なリズム。ところが「いまなんで曖昧な返事を返したの」から、ここに16ビートの打ち込み音(?)が加わる。これが曲全体をスッと軽くする。そうか「翼が生えた」っていうのはこのことなんだと気付かされる。

となると、2番でもきっと同じ展開があるのだろうと期待が高まる。「矢のように月日は過ぎて」でまた16ビートを使ってくるんだろう。歌詞からしても間違いない。ところがそうはいかないのだ。あの16ビートが入ってこない。まだか、まだかと思いながら歌詞を追いかけていると、その罠に気付く。そう、「ぼく」はいつのまにか「息絶え」ているのだ。ちくしょう、やられた!そして「なに食わぬ顔で」また例の16ビートがはじまる。

 

やられた!岸田にやられた!ちくしょう、岸田め!一生ついていくぜ!

 

そんな感じ。

グリンピースに恨みはないが

グリンピースに恨みない。まったくない。

緑色で、小さくて、丸くて、結構いいじゃんと思う。緑色の平和。

にも関わらずこれから、グリンピースへの不満を書き連ねようと思う。そこには、書くべき文章がうまく書けず、かといって机の前を離れるともう再びPCに向かう気力がなくなりそうなので、とりあえずなんでもいいから適当に文章でも書いてればいいやという、書き手の都合がある。

 

この豆にはじめて出くわしたのはいつか。ちょっと記憶が定かではないが、ミックスベジタブルの線はかなり薄いと思われる。俺の母親は農家の出のため、その手の非自然的野菜食品は嫌いなのだ。野菜は、群馬県は赤堀村の畑でとれたものが一番だと思っている女だ。だからミックスベジタブルなんて息子には食わせなかったはずだ、多分。気づかないで食っていた可能性はある。しかし息子としては母の農家の娘としての矜持を信じたいと思う。となると怪しいのがシュウマイである。

 

とりあえずシューマイで行こう。これは仮定の話だ。

生まれてはじめて見るシューマイ。なんだこれは。白い。小さい。丸い。この匂いは甘くはないな。しかしこれはギョーザってやつとは違うのか?似てるよな。でも違う。ギョーザにはこんな緑のやつは載っていなかっただろう。となるとこいつが、シューマイをシューマイたらしめているのか。にも関わらずところどころ落っこちているのはどういうことだ。けしからん崎陽軒。と思っただろう。なので俺はシューマイをシューマイたらしめているこの緑の小さな徴を、律儀に、丁寧に、きちんと真ん中にのせ直してから食べる。ははん、これはおおむねギョーザだな。むしろ大した香りもしないからには、ギョーザの格落ちだなと即座に侮る。俺が俺の意思でシューマイを注文することは金輪際ないだろうと即断する。シューマイに完全に興味を失った俺は、ではシューマイをシューマイたらしめていた緑の球体を、これだけで喰ってやろうかと思う。そうすることでシューマイのシューマイ性を奪ってやろうという冒涜的な気持ちが湧き上がる。幼いながら器用に箸を使い、おもむろに口に含む。舌の先で転がす。ふむ、悪くねえ。で、ぷちりと噛み潰す。そこであの青臭さが口いっぱいに広がる。

 

うへえ、これは、ひでえや。

 

 

そんな不幸な出会いがあったかもしれない。まあ恐らくなかっただろう。

その後、グリンピースとの付き合いは主に給食を通してのものだったように思う。

教室という名の閉鎖空間。教師とかいう変人ども。変なトレーナーを着た俺。農家の娘である母。そして端的にクソ以下の同級生たち。こんな環境で食う飯がうまいか?いや、麻婆豆腐は文句なしにうまかった。あの異常なオレンジ色の麻婆はなんだ?どこの中華屋で食えるんだ?日々のおかずとトレードで異常な量のスイカを食ったこともあったね。あとはサバ味噌と牛乳が合わなすぎて吐いたりもした。

で、肝心のグリンピースもちょいちょい顔出してたよ、ピラフとかさ。シューマイの時よりひどい味だったなあれは。なんていうか、底知れぬ悪意を感じたよ。小学校ってそんな場所だったからね。

 

それ以降、グリンピースとの関わりで、とくに語るべきものはないように思える。

食べてないって訳でもないんだけど、グリンピースを食べたかどうなかんて覚えてる暇がなかったから。もっと覚えることはたくさんあったんで。友達に彼女が出来たときになんて言ったらいいかとかね。それでさっきようやく、ほんとに久しぶりにグリンピースについて考えてみたら、こんな文章が吐き出されたという次第。

まあ俺の怨嗟なんてこんな1500文字くらいのもんだよ。大したことないだろう。だからグリンピースは安心してくれていいよ。堂々とやってくれ。小さき豆よ、たぶん世界はきみを愛しているから。

『食文化ノート―パリ・博多の台所から』

ひとによるかもしれないけれど、料理に関する本というのは基本的に心地よい。食べたことのない料理の味や色、香りを想像する。「そうだよ、これこれ」といような定番料理が出てくればその味を思い出す。自分にも使えそうなちょっとした「ワザ」をメモし、ちょっと面倒くさそうだけどそそられるレシピは「いつか自分も」と密かに思う(たいていやらない)。

『食文化ノート−パリ・博多の台所から』も、まずはそんな心地の良さを味わうことができる。(「ジャガイモとポワローのスープ」「タケノコとフキにアナゴをそえたおすし」「ゴマドーフ」「ガメ煮」……。)

 

 

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(表紙の魚がかわいい。鰯かな?)

 



著者の柴田せい(女偏に青)子さんは1949年生まれ。福岡で育ち料理をまなび、25歳のときに渡仏。一年間ヴェレイル家という一般家庭で暮らしながら、その家のマダムからフランス家庭料理の教えを受けたという。本書はそのときの体験をもとにした「パリの台所」と、郷土・博多の台所文化を歳時記風に綴った「博多の台所ー歳時記ー」からなる2部構成だ。

さて、「食文化ノート」という題名が示す通り、本書はレシピ本でななく、どちらかというと、比較文化論のようなノリで書かれている。

たとえば「まな板」について。

柴田さんはフランスに行く以前に、「西洋人は不器用だから、日本人のように食材を細やかに切ることができない」というように聞かされていたという。いまでもこんなことをいう人はいそうだ(ニッポンスゴイ)。
さて、フランスに行ってみるとどうだろう。まずそもそも、まな板を使わない。簡単な輪切りから始まりタマネギのミジン切りまで、こともなげに空中でスパスパと切ってしまう。そこで彼女の興味は「日本人と西洋人、どちらが器用か?」という不毛な論点を飛び越えて、「まな板」という道具そのものへ向かっていく。まな板を意味するフラン語”トランショワール”が元々は「かたいパン」を意味すること、「まな板」は漢字で「真魚板」と書くことを手掛かりに、「まな板」をめぐる文化背景を考察していく。

で、本書の一番の小気味良さは、柴田さんの考察が割と日本の食文化にキビシめであるところにあると思う。
とくに後半の「博多の台所ー歳時記ー」は、「歳時記」という形式からして日本料理を過度に寿ぐ展開を予想していたけれど、そんなことはなく、日本の食文化における「うま味至上主義」「香辛料の軽視」を繰り返し指摘する。

そもそも柴田さんがフランスの家庭料理を学んだ理由というのが
「フランスや中国では、自国のもの以外の料理をつくることがあまりないと言われる。日本の家庭料理を凌駕してしまった、高度に完成された家庭料理とは、どんなものだろう」
という好奇心からはじまったそうなので、日本の食文化にキビシめなのは当然かもしれない。このあたりの劣等感?は1974年という時代性を感じる。

とはいえ決して西欧コンプレックスで日本の食文化を否定するわけではなく「日本食、だいたい好きだしもう身に染み付いちゃってるけど、ここがちょっとイケてないよね」というくらいのスタンスで、そのバランス感覚が私にはちょうど良かった。

ちなみに私は完全に「うま味至上主義」なのであらゆる料理には死ぬほど味の素をかけます。昨日は茄子の肉味噌炒めと、ニラ玉を作りました。今日はなにを作りましょうか。

昼休み日記

今朝はフリースを羽織って家を出た。

昨日までは皮のコートを毎日着ていた。

今日が特にあたたかい日になりそうというわけではなかったけれど、とにかくコートはもう重くてうんざりだったので。

 

1月から生まれて初めて会社員というものになった。形から入ろうと思ったけれど、スーツは着ない類の会社なので、せめてと言うことでシャツばかり着ていた。でもそれももういいやと思ってフリースの下にはトレーナーを着ていた。まあ要するにそのくらいには慣れたってことだろう。

 

コートを着ないと身体が軽い。シャツを着ないと呼吸が楽だ。だから自分では随分スタスタ歩いているつもりだったけれど、外堀通りでいつも追い抜かれる長髪のおじさんにやっぱり今日も追い抜かれた。外堀にはアヒルが意味なさげに浮かんでいる。桜はまだ全然咲きそうにない。3月はやっぱり冬だよね。

 

歩きながら寄せ書きに何を書こうかと考えた。鹿児島にいたころの知人たちが、鹿児島から去る女性の送別会をやるということで、一言メッセージを求められたから。だから厳密には寄せ書きではないけど、気持ちの上ではそんな感じだろうと思った。そういう季節だしさ。

 

すでにそこを去った人間がこれからそこを去る人間に寄せ書きするなんてなんか変だけれど、まあいいでしょう。ぼくはその人のことが自然に好きだったので。けっこう踏み込んだ話もしたことがある。だから寄せ書きに参加すること自体は、うれしい。

 

でもやっぱり、寄せ書きってのはだめだ。書くのも書かれるのもあんまり得意じゃない。自分に充てられた寄せ書きは言いたいことを全然言ってくれてないといつも不満だったし、誰かに向けた寄せ書きには言いたいことなんてひとつもかけた覚えがない。

 

結局会社に着くまでなんにも思いつかなかった。今日の昼までに送ってくれということだったから、昼休みにでも書けばいいやと思った。

 

月曜日の午前中はあっちからきたFAXをこっちにFAXするみたいな、生産性のない感じで過ごした。生産性がない感じでも給料がもらえるのが会社員の醍醐味だろう。

 

それで昼休み。やっぱり何も思いつかない。せめて手を動かそうと思って、持ち歩いているノートパソコンのメモ帳にダラダラ文章を書きはじめていまになる。言いたいことはいつも言えないなあ。おそらく今回も。そういえばスネオヘアーにそんな曲があったねえ。『言いたいことはいつも』、ってそのまんまじゃん。

 

 

言いたいことはいつも

言いたいことはいつも

 

 

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というのが大体一週間前のこと。生産性のない割にはなんとなくバタバタしていて、久しぶりにこのパソコンを起動させたら。書きかけの文章が残っていて、現在。寄せ書きは送った、とりあえず。言いたいことは言えていない。今日もフリースとトレーナーを着ている。たぶん、明日も。彼岸過ぎまでは冬だと思う。