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『食文化ノート―パリ・博多の台所から』

ひとによるかもしれないけれど、料理に関する本というのは基本的に心地よい。食べたことのない料理の味や色、香りを想像する。「そうだよ、これこれ」といような定番料理が出てくればその味を思い出す。自分にも使えそうなちょっとした「ワザ」をメモし、ちょっと面倒くさそうだけどそそられるレシピは「いつか自分も」と密かに思う(たいていやらない)。

『食文化ノート−パリ・博多の台所から』も、まずはそんな心地の良さを味わうことができる。(「ジャガイモとポワローのスープ」「タケノコとフキにアナゴをそえたおすし」「ゴマドーフ」「ガメ煮」……。)

 

 

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(表紙の魚がかわいい。鰯かな?)

 



著者の柴田せい(女偏に青)子さんは1949年生まれ。福岡で育ち料理をまなび、25歳のときに渡仏。一年間ヴェレイル家という一般家庭で暮らしながら、その家のマダムからフランス家庭料理の教えを受けたという。本書はそのときの体験をもとにした「パリの台所」と、郷土・博多の台所文化を歳時記風に綴った「博多の台所ー歳時記ー」からなる2部構成だ。

さて、「食文化ノート」という題名が示す通り、本書はレシピ本でななく、どちらかというと、比較文化論のようなノリで書かれている。

たとえば「まな板」について。

柴田さんはフランスに行く以前に、「西洋人は不器用だから、日本人のように食材を細やかに切ることができない」というように聞かされていたという。いまでもこんなことをいう人はいそうだ(ニッポンスゴイ)。
さて、フランスに行ってみるとどうだろう。まずそもそも、まな板を使わない。簡単な輪切りから始まりタマネギのミジン切りまで、こともなげに空中でスパスパと切ってしまう。そこで彼女の興味は「日本人と西洋人、どちらが器用か?」という不毛な論点を飛び越えて、「まな板」という道具そのものへ向かっていく。まな板を意味するフラン語”トランショワール”が元々は「かたいパン」を意味すること、「まな板」は漢字で「真魚板」と書くことを手掛かりに、「まな板」をめぐる文化背景を考察していく。

で、本書の一番の小気味良さは、柴田さんの考察が割と日本の食文化にキビシめであるところにあると思う。
とくに後半の「博多の台所ー歳時記ー」は、「歳時記」という形式からして日本料理を過度に寿ぐ展開を予想していたけれど、そんなことはなく、日本の食文化における「うま味至上主義」「香辛料の軽視」を繰り返し指摘する。

そもそも柴田さんがフランスの家庭料理を学んだ理由というのが
「フランスや中国では、自国のもの以外の料理をつくることがあまりないと言われる。日本の家庭料理を凌駕してしまった、高度に完成された家庭料理とは、どんなものだろう」
という好奇心からはじまったそうなので、日本の食文化にキビシめなのは当然かもしれない。このあたりの劣等感?は1974年という時代性を感じる。

とはいえ決して西欧コンプレックスで日本の食文化を否定するわけではなく「日本食、だいたい好きだしもう身に染み付いちゃってるけど、ここがちょっとイケてないよね」というくらいのスタンスで、そのバランス感覚が私にはちょうど良かった。

ちなみに私は完全に「うま味至上主義」なのであらゆる料理には死ぬほど味の素をかけます。昨日は茄子の肉味噌炒めと、ニラ玉を作りました。今日はなにを作りましょうか。